IKUOのひとりごと 〜フランス便り〜

<2009.2.11 File No.14>

何となく・・・

「イクオさんは何故、フランスに来たのですか?」
答えに困る質問だ。

正直に一言で答えれば、「来たかったから・・・」としか答えようがないが、
それでは質問者を満足させることは出来ない。
もっと、ドラマチックな答えを、此方としても提供したいと言う
サービス精神は持っているものの、残念ながら答えを持っていない。

「インテリア・デザインは西洋の物。本物をこの目で見て来たい。」
「日本で働いて、色が付いてくる前に、学校終えて、すぐ、無色のままで行きたい。
その方が受ける影響が大きいに違いない。」
以上が父を納得させるのに考えた、私の“殺し文句”。こじつけ理由だ。

フランスに、具体的にはパリに憧れて、何でも向こうの方が優れていると、かぶれていた。
ミレイユ・ダルク主演の映画“恋するガリア”を観て、自由気ままな生活の出来る
“巴里の街”が大人の都会に見えるし、
クロード・ルルーシュ監督の“男と女”では矢張り大人の恋に憧れた。
一生懸命背伸びしている20歳の青年は、それでも100パーセント、ミーハーなのに
それすら気づいていなかった。

シルヴィー・ヴァルタンやアダモの日本初公演は、真っ先に観に行って、
パリのイエ・イエと言われた、当時の若者を代表する彼らは、矢張り“パリ的”と感激。
ヴァルタンはブルガリアからフランスに家族で移民、
アダモはイタリー、貧困のシシリア島からベルギーに子供の頃、やはり移民している。
フランス語を話すだけで、十分フランス的と憧れ、シビレル事が出来たのだ。

1968年3月末、初めての海外に向けて、ワクワクと羽田空港を飛び立った。
その頃は既に、誰でも申請すれば、パスポートを収得出来るようになっていた。
本当は、郵船で世界各地を回って、少しずつヨーロッパに近づく旅を夢見ていたが、
既に郵船は廃止になっていたので、飛行機しかない、と思った。
実際には、当時、殆どの人はナホトカ経由、シベリア鉄道利用して、
ヨーロッパに入って来ていたが、そんな方法のあることすら知らなかった。

1ドルが360円と定着していた時代。
海外に行くのに、米ドルで500ドル、日本円で2万円まで持ち出しを許可されていた。
2〜3年、パリで、と内心思っていたが、これではとても生活できない。
21歳の若者には、メチャメチャな大金を腹巻に撒いて、違法の出国をした。
内心ドキドキしながら、税関通過。
勿論Visaカードもないし、それどころか簡単に日本から送金も出来ない時代だ。
持ってきた日本円も、何処でもフランスの通貨、フランに交換できる状態ではなかった。
何時でもその気になれば帰国できるように、エアー・チケットは往復で買ってくれた。
当時は勿論、割安切符なんてない時代だ。
親には随分迷惑かけたことだが、親孝行することもなく、既に両親は他界してしまった。

“少年よ、大志を抱け”と子供の頃教わったが、“努力して何かを手に入れる”と
言う意味のはずなのに、フランスに来る、と言う大事なことすら、
自分では努力することなく実現したようだ。
勿論、行きたい、と言う夢を持ってはいたが、自分で努力して金を貯めたわけでもない。

第2次世界大戦で両親や姉たちが苦労した生活を虐げられた後、生を受けた我々世代は、
戦後の経済成長の景気の良い時に、全ての物質に恵まれ消費することを奨励された時代に、
何不自由なく、気まま放題な幼少時代を過ごしている。
その上、女5人、男2人の、7人姉弟の私は長男で、6番目にやっと生まれている!

1968年、私の渡仏した時は、世界各地で学生たち若者が、世の中の変化を要求した。
フランスでは5月革命と言われるゼネストが長引いて、ド・ゴール政権終末になり、
日本でも東大閉鎖されたりもした時代だ。
70年代には、大人たちのモラルも徐々に感化され、ヒッピー時代も受け入れられて、
長髪に羊の頭のようなクリクリ・パーマは極当たり前。
幅広のパンタロンが床まで垂れて、マキシ・コートも懐かしい。
若者のやりたい放題、若者の行動を大人はこんなもんかと眺めるだけ、タブーのない時代。
未だ、怖いエイズなんて影も形もない、失業もない、怖いもの知らずのパラダイス!

アメリカとの悲惨なベトナム戦争も終わりに近づき、マリファナどころかLSDなるものが
ヨーロッパでも騒がれた時期。 Peace and Love !!
ミュージカルHairや、その後には映画Moreの大ヒットで、サイケデリック音楽、
ピンク・フロイドのグループや、ウッドストックも懐かしい思い出。
イビザ島もヒッピーのメッカとして一躍有名になった。

1970年中頃を境に、日本の若者がグッとパリの街に増えた。
飛行機が、大韓航空やアエロ・フロットなど安いフライトが出てきたからだろう。
それまでは、会社からの出張か、たまに旅行者を見かけるぐらいだったのに・・・
殆どの旅行者は、「一生に一度の海外旅行だから」と覚悟して来たようだ。

地球は益々狭くなり、インターネットで瞬時に世界中で同じニュースを知ることが出来る。
フランスから、いくつかのプロバイダーは、ネットのみならず通常の電話相手なら
殆ど世界中、無料で、電話代が掛からずに、かけることが出来る便利さ。
70年初め頃は、高い電話代が払えず郵便局からコレクト・コールで2〜3時間待たされて、
やっと日本と繋がったのに、今の若者には想像できない話だ。
物価上昇するのは当たり前の世の中で、航空運賃と電話代だけは以前より安くなった。

当時の若者、パリでの我々の生活は似たり寄ったりの貧しい物だが、
何となく、その日暮であっても、何とか不思議と、特に不便も感じず生きてこられた。
適当に皿洗いや通訳、ガイド役などのバイトも有った。
努力してその日その日を精一杯生きていた、と言う感じでなく、ただ、何となく・・・
そう、戦後っ子の典型的な、何となく・・・

日本に未だ居た頃は、「この青二才が」的に扱われることに随分腹を立てたが、
今考えると、当時の大人たちの心境が良くわかる。
確かに我々世代は、頼りなかったに違いない。

はっきりとした目的持ってパリに来た人、何となく来た人、色々理由は有るだろうが、
当時パリにやって来た大半の人は、既に帰国してしまった。
帰国した人、残っている人、それぞれの分野で成功している人もいるが、
知り合った日本人の大半は、久しく行方が分からない。
パリで過ごした青春時代の経験は、何れにしても無駄にはなっていないと信じたい。

今はその頃知り合った友人たちの子供達、友人2世がパリにやってくる時代になった。
エイズ、失業、就職難、経済不景気、様々な悪条件で育った彼らは、
我々何となく世代と違って、頼もしい。

パリに来る目的が、はっきりしている。
滞在許可書収得のため学校に登録した我々とは違って、真面目に勉学、
卒業証書を優秀な成績で手に入れる子も少なくない。
女の子でも、往々にして男の子以上に、明確に自分の将来を考えて目標に向かい、
単に結婚するまでの就職、と言う我々の世代から、キャリアの世代に完全に変わった。

我々の時代では、フランスの会社で働けるとは誰一人考えていなかった。
唯一、航空会社の日本人カウンターと、僅かの免税店で働く店員さんがいたのみだ。
後に、農協さんの団体が来るようになって、一挙に免税店数、売り子さんが増えたが、
フランス社会も変化したことを大目に見ても、
今は優秀な子には、分野に関係なくフランス人と同等に働き口がある。
言葉のハンデなんて事は通用しない。
むしろ、フランス人と同様、フランス語は出来るが、
更に日本語も出来る、と、有利に考えているようで、全く頼もしい限りだ。

若い頃は、年上の人を見習って、ある目標として刺激を受けるものだと思っていたが、
今は全く正反対で、私は今の若い人から刺激を受けて、もっと頑張らねば、と
元気を貰っている。
彼らを見習って、改めて自分のこれからの人生の目標は?と考えた時、
これから先の方が短くなった今となっては、“何となく”と
悠長なことは言っていられない、と自分に言い聞かせてはいる。

今の若者たちが、我々の年代になった時、世の中はどんな変化をしているのだろう?
彼らは、その時の若者たちを見て、どんなことを考えるのだろう、と興味もある。

ひょっとしたら、我々“何となく・・・”世代のことを羨ましく思うかもしれない。
物事全てが機械化され、数字やグラフで仕事の評価をされるような時代になれば、
反動として、そうなりかねない。

・・・と、想像すること自体、やっぱり私は甘やかされた世代の、
根本的には“何となく・・・”世代のことを特に悪いこととも考えていない、
完璧な“何となく・・・”人間かもしれない。

 

 

                    チャン島にて 2009年2月1日

                           いくお



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